五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(二十)

そろそろ修論をどの辺りに「落ち着かせる」か、検討しなければなぁ—そんなことを思いながらシャワーを浴びる。先日、年度はじめに出した研究計画を見るとなんとまあ、大風呂敷を広げていることかと呆れてしまった。4ヶ月経った現在、僕はそのうちの1割も明らかにできていない気がする。結局研究というのは地道なもので、最初に思い描いていた予想図を達成するのには修士課程の2年間はあまりに短すぎるのだ。増して、僕のような怠惰な人間なら尚更だ。提出まで残り5ヶ月、意外と日数だけはあるような錯覚を覚えるが、どうせすぐに過ぎてしまうのだろうとも思う。研究倫理的にまずいことは絶対行わないが、クオリティの問題で修了できないなんてことがあったら、死んでも死に切れない。

一方で仮に博士後期に進めたならば、その際に行うことは実は今以上に具体的に決まっている。学振の申請のためにそこそこ綿密な計画を立てる必要があったからだ。修論執筆の道筋が固まっていないのに博士の研究の骨子は出来ているとはなんとも皮肉というか……。これには一応、「本当にやりたい研究を博士に残しておいた」という理由がある。今まで時間と研究能力と外国語能力の問題で二の足を踏んでいたあるテーマにいよいよ取り掛かるつもりなのだ。それ故、全てがうまく行った後の博士後期課程の研究はかなり楽しみではある—尤も、修論と院試を乗り越えた後の話だ。今は目の前の研究に取り組まねばならないと思った7月末である。

極夜抄(十九)

マクドナルドにて、パジャマのような格好をした御老体がコンビニのおにぎりを食べていて泣きそうになった。以前、コンビニでノーマスクの中学生集団に出会した時にも同じ気持ちになったのを覚えている。私は、恐らく彼らよりも常識的な行動をしていると思うし、真っ当な人間として振る舞っている—と思う。それなのに、自分が彼らよりも不幸に思えてならないのだ。何故私が理不尽な思いをしなければならないのか?結局世の中は愚直な人間が損をするようにできているのか?なんと虚しいことだろう。加えて怖いのは、いつか自分が彼らの側に行ってしまうのではないか?ということである。恐らく彼らには罪の意識は無い。自分が中心の世界に生きているのだろう。その世界の住人に、私も知らず知らずのうちになってしまいはしないか、という恐怖。フードコートで新聞をブツクサ言いながら読む御老体やレジで大声で理不尽なことを言う初老男性、コンサートホールで蘊蓄を垂れる中年や阪急電車で酎ハイを飲み出す壮年男性— 私が白眼視している彼らに、気付かぬうちになってしまうのかもしれないという恐怖。それを常に抱えながら、私は生きている。正直、そうなる前にこの世を去ってしまいたい。自分がまだ自分でいられるうちに。

極夜抄(十八)

昨日は結局よく眠れず、昼頃に起き、研究室に行くこともなく過ごしてしまった。早速目標達成率ゼロである。情けないものだ。

今朝はなんとか9時半頃に起き、2限をオンラインで家から受講することに決めたので、まあ昨日よりはマシだろう。あんな低レベルな目標も達成できないとは、我ながら自分の人間としての程度の低さには呆れるものである。加えてそこそこ大事な郵便物を何処かに失くしたりしているので本当に酷い。生きていくのが苦痛で堪らない。


ただいま2限が終わった。軽く部屋を片付けたら大学に行こう。一番暑い時間だし、夕方からバイトなのでそんなに長居はできないが、家にいると何もしない怠惰な人間なのでこればかりは仕方がない。でもどうせなんらの達成感も得ないまま一日を終えるのだろう。悲しい哉。


極夜抄(十七)

とりあえず今日—もう昨日だが—は8時に起きるのには失敗したが、午前中に洗濯をし、昼までには研究室に行き、なんとか2時には眠れそうである。昨日立てた目標を早速一部達成できなかったが、まあ少しずつ頑張れば良い。1ヶ月ほど前、狂ったようにやたらとビッグマックを食べていた時期があったのだが、今思うと結構心身が堪えていたのだと思う。だんだん人間らしさを取り戻すには、このくらいの緩い目標と達成度でいい……と思うことにしよう。


7月も末、セメスターにも終わりが見えてきた。今日は前期最後のゼミだった。ということはいよいよ夏休みである。2ヶ月のうちに修士論文の骨子を固めてしまいたいものだが—怠けている未来しか予想できない。果たして本当に修了できるのだろうか?修了できたとして院試は受かるのか?というか院試の勉強は何をすれば?不安は尽きない——

極夜抄(十五)

ふと目が覚めた時間が朝7時半頃だったのを見て、これは夢ではないかと疑った。こんなにも人間らしい時間に起きられるとは!むろん、7時半という時間はだいたいの人にとって少しも早い時間ではないし、その時間に起きたら遅刻するよ、という人も多いだろう。これはいかに私の生活が歪んでいるかの証左であるし、加えてよくそれでここまでなんとか生きていたものだとも思う。ゴミを出し、洗濯をし、掃除をする。当たり前のことがこんなにも素晴らしく思える。他の人が毎日のようにしていることを行うだけで、なんだか善行をしたような気持ちにすらなる。ここ数ヶ月、自分がいかに荒んだ生活を送っていたのかを痛感する。

この後はどうしようか。マクドナルドでソーセージマフィンを食らい、図書館に延滞していた本を返し、研究室に行き— 今までの生活が酷すぎて、午前中から1日のプランが見えるだけで涙が出そうになってしまった。

気分が良いのでいくつかこれからの目標を列挙してみよう。

・毎日8時までに起きる(そのくらいでないと多分挫折する)

・朝、少しずつ掃除をする

・予定がない場合毎日10時までに研究室に行く

・できるだけ本ブログに日記をつける

・夜2時には寝る(たまに夜勤のバイトをしているのでその場合1時台はキツい)


レベルが低すぎるが、この程度が私にはお似合いなのかもしれない。


そんなわけで朝マックを嗜んでいるが、レジでオーダーをしているガキ2人がマスクをつけていなくて流石に危機感を覚えたので退出しようと思う。


極夜抄(十四)

ぼーっとしていたら図書館の本を延滞してしまい、二日のペナルティを食らった。最近何をしてもダメな気がする。

僅かなマイナスの積み重ねが、大きな損失を生み出している。それは夜勤の疲れだったり、夏の暑さだったり、洗濯と掃除の先延ばしだったりする。気づいた時には後戻りできない場所にいるものである。可能ならばこの汚すぎる部屋をユンボか何かで取り壊してほしいとすら思う。

狂ってしまった歯車を直すためにはなんらかの手段を講じなければならない。それは例えば一日かけて正しい生活リズムを取り戻すことだったり、少しずつでも部屋の掃除を始めることだったりするだろう。しかしそんな気力もないのである。思えばやらなければならないことのみならず、やりたいことさえできていない。以前ならばもっと積極的にCDを聴いたり、読書をしたり、作編曲をしたりしていたはずなのだ。かろうじて気晴らしに外出することはできているが、その他の趣味的行為は生活からすっかり抜け落ちてしまった。考えてみれば、僕の部屋はもはや居心地の良い場所ではないのである。物は散乱し、ラップトップの調子は悪く、採光も良くない。研究を進めるなら大学に行った方が良いし、本を読むなら喫茶店に行ったほうがいい。外出は、自室という現実を見ないことで精神的な安定を生み出す行為に他ならないのかもしれない。

ところが季節は夏となり、外出をすると気持ちの悪い汗が止まらない。家にいても地獄、外に出ても地獄。私に居場所はあるのだろうか。


それはそうと唐突に奈良に行きたくなってきた。長谷寺室生寺に行きたい。以上。


極夜抄(十三)

昨晩バイトで電話口の客に理不尽なことを言われて以来気分がいつにも増して良くない。所詮アルバイトなのだから気落ちせずにいきたいものだが、頭ではそう思っていても未だに胃がキリキリする。つくづく自分は難儀な性格をしていると思う。

 

先日、世の中を震撼させた銃殺事件が起きた。その日、私は昼前にゆっくりと起き、なんとなく端末を開いたら飛び込んできたニュースがそれだったので、しばらく状況を掴めずにいた。現代日本でこんなことが起きるんだ—という衝撃と共に、その時ぼんやりと私は思ったのである。それでも私は明日もいつも通り夜更かしをするだろうし、研究の進捗は芳しくないだろうし、銀行口座はすっからかんのままなのだろう。そして阪急宝塚線は十分に一本のペースで急行と各駅停車とをそれぞれ運行しているだろうし、国道171号線は大量の車が東西に行き交うだろうし、伊丹空港にはひっきりなしに国内便が離着陸するのだろう、と。こんな事件が起こっても、身の回りの生活はごく当たり前に進展していくという、ちょっと浮遊したような感覚を抱いたのである。それ故、事件を痛ましく思う一方で、自分自身の感情は今まで通りのパターンを辿る。人命を軽視しているわけでは決してないし、生命の尊厳を汚すつもりも一切ないが、自ら命を絶ってしまいたいな、と思ってしまうのだ。

おそらく、私は他人と比べて物凄く不幸というわけではないだろう。むしろ状況はかなり恵まれている方だとも思う。ただ、月並みな言説ではあるが「苦しいのは君だけじゃない」とか「君より不幸な人間はたくさんいる」とか、そんな言葉はかけられる側からしたら何の意味もなさないのと同様、他人が相対的に見て私より苦しかろうとなんだろうと、別に私の感情になんらの変化も与えないのである。人には人の地獄があると言われるが、付け加えるならば、それぞれの地獄は他者からは見えないものでもあるのだと思う。そんな漠然とした希死念慮を抱きながら深夜にYouTubeを見ていたら、自殺を止める駅員、みたいなシチュエーションの動画が流れてきた。命を無駄にしないでください、あなたが死んだらお父さんやお母さんが悲しみますよ— よくもまあ、こんな言葉を言えるものだ、と思ってしまった。もし相手が家庭の問題を抱えていたらどうするつもりだったのだろう。なんと偽善的ではないか。この動画は実際に自殺を止める映像ではないが、しかしだからこそそう思ったのかもしれない。実際に自殺を止めたならば、咄嗟の発言としてそのような止め方をすることにも理解はできる。ただ、わざわざこのセリフを用意して動画を作ることに形容し難い気持ち悪さを感じてしまったのだ。これは自分が薄汚れた性格をしているせいなのだろうか。私は、特段家庭に問題を抱えていたわけではない。高校生の頃、母親の不倫によって父親が自暴自棄になったため家庭が嫌いになったことはあったし、それ以来結婚とか夫婦とかに対する信用をほぼ失った経験はあるが、別に両親には愛情と経済的援助とを受けて育ったと思っているし、その点感謝もしている。ただし、そもそも生まれてこなければ様々な面倒ごとに巻き込まれずに済んだのに……という思いは感謝を上回る。私はまだ色々な間違いを犯しているとは思うが、一番の間違いは二十世紀末のある冬の日、とある地方都市の産婦人科で起きたと思う。叶うならばその日の十ヶ月前にタイムマシンで行って、父親の男性器に避妊具をつけてやりたいくらいだ。だから、多分、私がとあるタイミングで「残された両親が悲しみますよ」と言われたとしても「知ったこっちゃねえよ」と思うだろう。

 

こんな阪急東通の側溝にぶちまけられた汚物みたいなことしか吐き出せない奴は、そもそも気力も意気地もないので、残念ながら明日以降ものうのうと生きながらえてしまうのだと思う。しんどいね。