五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(二十四)

私は名阪間を西へと向かう新幹線の車内にいる。久しぶりというほどでもない帰省を終えたばかりだった。

大阪から新幹線と特急とを乗り継いでおよそ4時間。そこに広がる人口二十万余りの小都会が私の郷里だった。悪い街ではない。凡そ都市と呼ばれる空間に必要なものは揃っていた。中心駅には新宿と名古屋からやってくる特急が停まるし、大きなファッションビルもあったし、駅前にはスタバもタリーズもあった。市街地の中にはそれなりの規模の美術館とコンサートホールもあった。満足のいく蔵書数を有する図書館もあった。国立大学もあった。私にもそれなりの愛郷心はあった。それでも、私はこの街から出たかった。

盆地の真ん中に広がる都市は、その地形のみならず、気風まで閉鎖的だった。朝起きればポストには信濃毎日新聞が入っていた。家を出れば松電バスが道を行く。皆、八十二銀行の口座を持っている。ビルは北野建設が建てている。夕食の買い出しはツルヤかアップルランドだ。高校生の私はそんな地方都市に飽き飽きしていた。

最も嫌だったのは出身高校に対する一種の神話性だった。私の頃は随分とマシではあったのだが、少し上の世代のそれは酷いものだった。つまり、市内でトップの県立高校を出るだけで必要以上に一目置かれるのだ。トップ校と言っても大したことはない。今や倍率は1.1倍を割り込むし、進学実績だってたかが知れている。そのくせプライドだけ高いので、半分が浪人する。それなのに地元ではエリートとしてチヤホヤされるのだ。その高校は私の母校でもある。私自身、その高校の自由な校風は心底気に入っていたし、三年間をそこで送れたことに対してはよかったと思ってはいる。しかしそれとは別の感情として、地域全体からの歪んだ評価が気持ち悪くて堪らなかった。

大阪に来て6年が経つ。地方的呪縛から逃れた僕にとって、全員が他人でいられる大都会は本当に心地が良かった。誰も私を知らない。褒めもしないし貶しもしない。面倒な付き合いや偏見は殆ど無かった。だからこそ、その環境の中で僅かに生まれた人間関係は本当に大事なものに思えた。しかし、学部を卒業する頃にその関係は空間的理由によって多くが希薄なものになってしまった。サークルを引退し、多くの知り合いは就職し、結局残ったのは私ひとりだったのだ。誰もが無関心な都会の空気を享受しながら、常に誰かを頼っていた自分に気づいた時にはもう誰もいなかった。そして私は計り知れぬ孤独を抱えながら目の前の課題に取り組んでいた。そうしているうちに、多分いくらか精神を病んだような気もする。

 

そんな私は外部者として郷里にやってきた。旅人として訪れてみると、なるほどこの街はなかなか良い街だ。大阪という名の現実からの一時的な精神的亡命を果たす場所としては優秀だろう。数日滞在する分には飽きない街と観光地を有し、生活に困らないだけのインフラは整備されているのだから。ただ、終の住処にする気は湧かなかった。

都会と地方の中間の、中途半端なこの街と同じように、私は都会にも地方にも浸かりきれなかったのかもしれない。ただ、今はまだ都市生活者としての恩恵に預かりたいとだけ思った。孤独だとしても、その孤独を愛せるようになる術がいずれ見つかる気もするのだ。

 

AMBITIOUS JAPANの歌い出しが聞こえる。間もなく新大阪だ。また元の、雑踏に紛れた生活に戻るため、私は席を立った。