五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(二十七)

急なノスタルジー(?)に駆られたのだろうか、先日、急に米澤穂信古典部シリーズを読み返し始めた。
人並みに本を読むのは好きな私だが、好きな作家を訊かれると若干困ってしまう。好きな作品は存在しても、特定の作家を好きと言えるほど単一作家の作品群をどっぷり読んだ経験はないからだ。それでも、代表作と言える作品を一通り読破し、かつ好きな作品も存在する作家は何人か挙げることができる。そういう意味で、米澤穂信はその筆頭と言える。少なくとも古典部や小市民、太刀洗万智をはじめとするシリーズは全て読んだし、新刊本が出れば買っている。かつ、一度作家のトークショーにも行ったことがある。……故に好きと言っても怒られはしないだろう。尤も『折れた竜骨』と『インシテミル』が未読なのは恥ずかしい話ではあるが。

さて、私が古典部シリーズを揃えたのは高校生の頃の話で、その間『氷菓』から『ふたりの距離の概算』まで(当時『いまさら翼といわれても』は未刊だった)の5冊を何度か読み返している。となれば当然話の筋も推理も全て覚えている訳だが、にもかかわらず、久々に読み返した古典部シリーズは色褪せない魅力によって私を惹きつけた。
この作品群は推理小説である一方、青春小説としての一面も持ち合わせる。今回文庫化されている5冊を3日ほどで一気読みしてみると、登場人物たちの心理的変化や精神的成長がはっきりとわかるのである。それは—原作の言葉を借りれば—甘く、痛く、そして苦いものである。
さて、そんな登場人物は高校生。私よりも6〜8歳年下となる。私自身が高校生だった時代の彼らは、どこか大人びて見えた。言葉遣いも、知識も、立ち振る舞いも。今読んでみてもそれらは高校生にしては出来過ぎているように思える。しかし、人物の心理は年相応に青臭いと思えるようになった。人間関係、自分自身の生き方、そして恋やそれに近いもの。難しい言葉で一見大人びて見えるそれは、咀嚼してみれば10代の若者にありきたりの感情であると気づいたのだ。
ふと、自分自身について考える。「彼ら」よりも8つ年上の私は、多分彼らの目からすれば大人に見えるのだろう。しかし、その内面は、高校生とそこまで変わらない。私が今抱えている行き場のない感情を列挙すれば以下のようになろう。孤独、経済的困窮、将来への焦り、それから片恋に近い何か。噫、私は何らの精神的成長を遂げぬまま、8年を過ごしたというのか!周りの人間が新しい環境で地位を築き、多くの人間が通過するであろうさまざまなライブイベント(例えば就職とか昇進とか結婚とか、である)を経ようとしているというのに!自身の成長がゼロであるのを否定できないのが悲しいところだが、過去のことを嘆いても仕方がない。ラインハルト・フォン・ローエングラムも言っていたではないか。「去年のワインの不味さを嘆くより、今年植える葡萄の種について研究しよう」、と。
尤も、今年も佳いワインを作れる予感はしないのだが。