五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(二十八)

一月、修士論文を出し終えた。二月、博士課程の院試を終えた。なんとか合格した。そして三月が来た。

今日で三月も三分の一が終わったことになる。

 

昨晩、漠然と死にたいと思った。名古屋駅の近くの、安いビジネスホテルのベッドの上で。妙に寝苦しい夜だった。灯を消してもちっとも眠気は来ないし、重たい布団に包まると次第に汗ばんでくる。かと言って足や腕を外に出すとそれはそれで冷えてくる。うつ伏せになったり横向きになったりしてみても何も変わらない。大人しく仰向けになってぼーっとしていると、茫漠とした不安がやってくる。その不安は、次第に具体性を帯びてくる。

まずお金がないなぁ、ということ。学振にも大学の研究助成にも落ちた私は四月から経済的に困窮することが目に見えている。日本学生支援機構奨学金は入学以降に申請なので、三ヶ月程度は確実な収入がないことは確実なのだ。アルバイトも始めるが、それだけで生活費の全てを賄えるわけでも無い。加えて三月末の諸々の支払いでただでさえ少ない口座残高がごっそり削られる。KAT-TUNでもないのにギリギリで生きている。

第二に留学関係のこと。金もないのに留学のことを考えるのも笑止千万だが、語学能力も金と同じくらい不足しているのだ。特に一個人の努力でなんとかならない会話能力については語学学校に通う必要もあるだろう—そして、それにはまたお金が必要になる。噫資本主義。個人的な計画として、向こう二年のうちに交換留学協定を利用してプラハに一年滞在し、その後正規でドイツに長期留学しようと思っているのだが、いかんせん大学なり留学なりの制度が十分に理解できていないので、その辺りもリサーチせねばなあ、と思っている。また学部と院で必要な言語能力(CEFR)が違うため、その対策もせねばならない。以前あるドイツの大学の受け入れ基準を調べていると、学部はCEFRでB2なのが院はC2だったりしたので軽く絶望したのを覚えている。自分が留学に行きたくてもなかなかいけない理由は経済、言語能力、制度とあらゆる面に及んでおり、そのそれぞれが絡み合っているために一つずつ潰すことが困難で雁字搦めになっている点にある。そのため身動きが取れない状態、何から始めればいいのか分からない状態になっているのだが(なんと情けない!)、流石にそれではまずいだろう。早いところ然るべき人や機関に相談すべきなのだろうが、そのアテもないから困る。

 

院試の口頭試験にて、教授から「君は然るべき環境に身を置けば伸びる人だから」と言われた。これはまあリップサービスではあるのだろうが、そうだとすればさっさと行動に移すべきなのだ。しかし、簡単にそうもできない状況が続いていて、うだうだと自分に言い訳をしつつ燻り続けている。

 

そんなことを考えていると、次第に「本当はやりたいことなんてなかったのではないか?」と思えてくるのだ。人間は自ら望んで生まれてきたわけではない。性交渉の結果として生み出されたにすぎないのだ。そのくせして正しく生きることを強いられるし、何か夢とか目標とかを持つことが「よし」とされる。ちゃんちゃらおかしい話だと思ってしまう。ちょうど私の生まれた街で冬のオリンピックが行われた年の某月某日、両親がきちんと避妊していたら私は苦労しなかったのだ。そんな理由で、私は親を憎んでいる。

かと言って、脛を齧って齧って齧りまくり、骨の髄まで齧りまくって味がしなくなるまでしゃぶり尽くすほどがめつくはなれない。難儀なことである。

そう考えていたら死にたくなってしまったのだ。よりによって、日付が三月十一日になろうというタイミングで。熟自分という人間が愚かで嫌いになる。

 

先日、修了予定者が発表され、無事自分の学籍番号を確認した。それと同じ日に博士課程の入学書類を提出した。そのはずなのに全く晴れ晴れとした気持ちにならない。結局博士課程に受かっても落ちても地獄かまた別の地獄かの二択だったのだと思う。そう考えると博士に進むことが自分にとって正しい選択なのか疑わしく思えてくる。しかし、研究職を諦めた自分の姿を想像すると、自然に涙が出てくるのだ。この点、もしかすると私にはやりたいことがあるのかも知れない。

 

修了予定者一覧の下に成績上位者が掲示されていた。首席は私の研究室の同期だった。私はまた死にたくなった。

極夜抄(二十七)

急なノスタルジー(?)に駆られたのだろうか、先日、急に米澤穂信古典部シリーズを読み返し始めた。
人並みに本を読むのは好きな私だが、好きな作家を訊かれると若干困ってしまう。好きな作品は存在しても、特定の作家を好きと言えるほど単一作家の作品群をどっぷり読んだ経験はないからだ。それでも、代表作と言える作品を一通り読破し、かつ好きな作品も存在する作家は何人か挙げることができる。そういう意味で、米澤穂信はその筆頭と言える。少なくとも古典部や小市民、太刀洗万智をはじめとするシリーズは全て読んだし、新刊本が出れば買っている。かつ、一度作家のトークショーにも行ったことがある。……故に好きと言っても怒られはしないだろう。尤も『折れた竜骨』と『インシテミル』が未読なのは恥ずかしい話ではあるが。

さて、私が古典部シリーズを揃えたのは高校生の頃の話で、その間『氷菓』から『ふたりの距離の概算』まで(当時『いまさら翼といわれても』は未刊だった)の5冊を何度か読み返している。となれば当然話の筋も推理も全て覚えている訳だが、にもかかわらず、久々に読み返した古典部シリーズは色褪せない魅力によって私を惹きつけた。
この作品群は推理小説である一方、青春小説としての一面も持ち合わせる。今回文庫化されている5冊を3日ほどで一気読みしてみると、登場人物たちの心理的変化や精神的成長がはっきりとわかるのである。それは—原作の言葉を借りれば—甘く、痛く、そして苦いものである。
さて、そんな登場人物は高校生。私よりも6〜8歳年下となる。私自身が高校生だった時代の彼らは、どこか大人びて見えた。言葉遣いも、知識も、立ち振る舞いも。今読んでみてもそれらは高校生にしては出来過ぎているように思える。しかし、人物の心理は年相応に青臭いと思えるようになった。人間関係、自分自身の生き方、そして恋やそれに近いもの。難しい言葉で一見大人びて見えるそれは、咀嚼してみれば10代の若者にありきたりの感情であると気づいたのだ。
ふと、自分自身について考える。「彼ら」よりも8つ年上の私は、多分彼らの目からすれば大人に見えるのだろう。しかし、その内面は、高校生とそこまで変わらない。私が今抱えている行き場のない感情を列挙すれば以下のようになろう。孤独、経済的困窮、将来への焦り、それから片恋に近い何か。噫、私は何らの精神的成長を遂げぬまま、8年を過ごしたというのか!周りの人間が新しい環境で地位を築き、多くの人間が通過するであろうさまざまなライブイベント(例えば就職とか昇進とか結婚とか、である)を経ようとしているというのに!自身の成長がゼロであるのを否定できないのが悲しいところだが、過去のことを嘆いても仕方がない。ラインハルト・フォン・ローエングラムも言っていたではないか。「去年のワインの不味さを嘆くより、今年植える葡萄の種について研究しよう」、と。
尤も、今年も佳いワインを作れる予感はしないのだが。

極夜抄(二十六)

日本学術振興会の電子システムにログインし、結果を確認した私は、そのままそっとブラウザを閉じた。仮にラップトップで接続していたならば、「ぱたりと閉じた」とでも記述しただろう。生憎私はスマートフォンで結果を見たので、そんな視覚的にわかりやすい行動を取れなかったのだ。
結果、というのは日本学術振興会特別研究員の審査結果である。博士課程或いはそれを志す者は、「学振」の審査に通るか否かで今後暫くが左右されるとも言われる—主に金銭的に。私の結果がどうだったかは書くまでもない。通過していたらブラウザを閉じたりなんてしないだろう。
審査に落ちたのは納得である。しかし、納得できてしまえる点が悔しくて堪らないのだ。私は学部と修士を総合しても経歴書に書けるような学会発表、論文投稿、留学経験、語学検定資格などは持ち合わせていない。そんな奴の「研究推進能力」なんぞ、高が知れているだろう。要は、私はもっと努力すべきだったのだ。小さな機会でも発表をすべきだったし、語学の研鑽も積むべきだった。それをした上で落ちたならば、「ここまでやったのに落ちたのだから仕方がない」と割り切ることもできたのに。
不採用者の中での位置付けは、どうやら悪くはなかったらしい。しかしそれは何の慰めにもならないだろう。目の前にあるのは結果だけであり、假令次点だとしても来年から貰える研究費はゼロなことに変わりはない。

来年一月頭には完成するはずの修論の進捗が良くない私にとって、仮に学振に通っていたら、それは修論を仕上げる動機付けにもなったのだ。それが失われた今、私は消化試合……いや、それを通り越して撤退戦と化した未完成の修士論文に対峙している。留年や自主退学も、さしてあり得ない話でもない。ワハハ、と笑ってみたものの大してうまく笑える訳もなかった。どうせ私は一廉のものになれないまま、飢えて死んでいくのだろう。

極夜抄(二十五)

短い帰省を終え、都市生活に回帰してから二週間が経過した。今、私は大阪を離れ、東京は丸の内にいる。夜行バスの発車まで時間を潰す場所が見つからなかったため、中央郵便局の脇のベンチで時が過ぎるのを待っているのである。

日中こそ暑くなったが、夜はもう秋の空気だ。ビルの隙間を抜けていく風はひんやりとしており、涼しさを通り越して寒さすら感じる。その寒さを我慢してでもこんなところで待機しているのは、多分丸の内の気風が好きだからだろう。

あらゆる都市景観を考えてみた時、心惹かれるのは程よく整理され、程よくゆとりがあり、清潔で、落ち着きと気品を備えた街である。東京駅丸の内口周辺は素晴らしい。ネオ・ルネサンス様式の中央駅の風格は言うまでもないし、その周囲—すなわち開けたランドスケープを備えた行幸通り、戦間期モダニズムを今に伝える東京中央郵便局、そのファサードを生かしながら広い内部空間を実現させたKITTE、形態自体は無機質にも関わらず何処か温かみを覚える東京海上日動ビル、その他美しいビルディングの群れ—は私にとってのある種のロマンである。大阪だと例えば中之島から北浜にかけての景観やグランフロント大阪。ワクワクとさせる都市空間が具現化されているのだ。

大阪フィルを聴いた帰りに、たまに梅田ではなく北浜経由で帰ることがある。フェスティバルタワーやダイビル等の清潔な高層ビルを背景に日銀や図書館、公会堂や難波橋を眺めながら川縁を歩く贅沢なひとときを、演奏の余韻とともに噛み締めるのだ。

またJR大阪駅で降りる時には連絡橋改札を使うようにしている。大きな庇の下、長いスパンを連結するエスカレーターに乗りながら、グランフロントとそれに繋がる広いペデストリアンデッキを眺めていると、活気と気品を備えた都市のランドスケープを一瞬にして享受したような気持ちになるからだ。

不思議なものだ、そんなはずもないのに美しい都市空間の中では、どんな夢も叶う気がしてしまう。単純な私の心は、それだけで一時的に満ち足りてしまうのだ。夜の丸の内を歩くだけで、凡庸な自分がまるで特別な人間であるかのように思えてくるのだから。

 

とはいえ夜風に当たりすぎて流石に寒くなってきた。どんなにここが素敵な街だとしても、風邪をひくのはごめんだ。風をしのぐため、私は愛すべき都市空間にさよならを告げた、

極夜抄(二十四)

私は名阪間を西へと向かう新幹線の車内にいる。久しぶりというほどでもない帰省を終えたばかりだった。

大阪から新幹線と特急とを乗り継いでおよそ4時間。そこに広がる人口二十万余りの小都会が私の郷里だった。悪い街ではない。凡そ都市と呼ばれる空間に必要なものは揃っていた。中心駅には新宿と名古屋からやってくる特急が停まるし、大きなファッションビルもあったし、駅前にはスタバもタリーズもあった。市街地の中にはそれなりの規模の美術館とコンサートホールもあった。満足のいく蔵書数を有する図書館もあった。国立大学もあった。私にもそれなりの愛郷心はあった。それでも、私はこの街から出たかった。

盆地の真ん中に広がる都市は、その地形のみならず、気風まで閉鎖的だった。朝起きればポストには信濃毎日新聞が入っていた。家を出れば松電バスが道を行く。皆、八十二銀行の口座を持っている。ビルは北野建設が建てている。夕食の買い出しはツルヤかアップルランドだ。高校生の私はそんな地方都市に飽き飽きしていた。

最も嫌だったのは出身高校に対する一種の神話性だった。私の頃は随分とマシではあったのだが、少し上の世代のそれは酷いものだった。つまり、市内でトップの県立高校を出るだけで必要以上に一目置かれるのだ。トップ校と言っても大したことはない。今や倍率は1.1倍を割り込むし、進学実績だってたかが知れている。そのくせプライドだけ高いので、半分が浪人する。それなのに地元ではエリートとしてチヤホヤされるのだ。その高校は私の母校でもある。私自身、その高校の自由な校風は心底気に入っていたし、三年間をそこで送れたことに対してはよかったと思ってはいる。しかしそれとは別の感情として、地域全体からの歪んだ評価が気持ち悪くて堪らなかった。

大阪に来て6年が経つ。地方的呪縛から逃れた僕にとって、全員が他人でいられる大都会は本当に心地が良かった。誰も私を知らない。褒めもしないし貶しもしない。面倒な付き合いや偏見は殆ど無かった。だからこそ、その環境の中で僅かに生まれた人間関係は本当に大事なものに思えた。しかし、学部を卒業する頃にその関係は空間的理由によって多くが希薄なものになってしまった。サークルを引退し、多くの知り合いは就職し、結局残ったのは私ひとりだったのだ。誰もが無関心な都会の空気を享受しながら、常に誰かを頼っていた自分に気づいた時にはもう誰もいなかった。そして私は計り知れぬ孤独を抱えながら目の前の課題に取り組んでいた。そうしているうちに、多分いくらか精神を病んだような気もする。

 

そんな私は外部者として郷里にやってきた。旅人として訪れてみると、なるほどこの街はなかなか良い街だ。大阪という名の現実からの一時的な精神的亡命を果たす場所としては優秀だろう。数日滞在する分には飽きない街と観光地を有し、生活に困らないだけのインフラは整備されているのだから。ただ、終の住処にする気は湧かなかった。

都会と地方の中間の、中途半端なこの街と同じように、私は都会にも地方にも浸かりきれなかったのかもしれない。ただ、今はまだ都市生活者としての恩恵に預かりたいとだけ思った。孤独だとしても、その孤独を愛せるようになる術がいずれ見つかる気もするのだ。

 

AMBITIOUS JAPANの歌い出しが聞こえる。間もなく新大阪だ。また元の、雑踏に紛れた生活に戻るため、私は席を立った。

極夜抄(二十三)

下鴨神社の古本市で買った本を積読にしないために、そのうちの一冊を読み始めた。カレル・チャペックの『北欧の旅』である。

カレル・チャペックは説明するまでもなく戦間期チェコスロヴァキアを代表する劇作家である。私自身は『R. U. R.』、『山椒魚戦争』、『白い病』の三作品を読んだことがある。それらに共通するテーマ——階級社会、機械化、全体主義などに対する風刺——は重いはずなのにどこか軽妙な語り口であり、その世界に引き込まれた。それと同時に現代社会も同じ問題を抱えているのだと思わされた。……なんともベタな感想だが。

そんな彼はエッセイや旅行記も多く残しており、『北欧の旅』もその一つである。タイトルが示す通り、デンマークスウェーデンノルウェー三ヶ国を旅した思い出を綴ったものである。

読み始めた瞬間、その文章の美しさに驚いた。次に引用するのはチャペックがデンマークの国土に対して抱いた印象を描写した部分だ。

地図の上に描かれた低地のような、明るい緑の大地、緑の草原、緑の牧場、点在する 牝牛の群。白い花房をつけたライラックの暗い茂み。ミルク色の肌をした青い目の娘たち、ゆっくりと慎重な人たち。 定規を使って描いたような平野—— このどこかに、ヒンメルビィヤウ、つまり「天の山」という究極の名で呼ばれる山がある、と言う。 わたしの友人の一人が、車でその山を探し廻ったが見つからず、土地の生え抜きの人 に、どこへ行けばその山に行き着くのか、と尋ねたところ、「もう何回もそこを通ったよ」と言われたそうだ。だがその話はどうでもよい。それだけ、ここは広々と見渡せる。爪先立ちすれば海さえも見えるだろう。何としよう、ここはちっちゃな国だ、 たとえ五百の島全部を寄せ集めたとしても。まるで小さなパンの一片のようだが、その代りに、厚いバターが塗られている。そう、家畜の群、農場、はち切れそうな家畜の乳房、樹冠に埋もれる教会の塔、さわやかなそよ風の中に廻る風車の肩——。*1

デンマークの国土、すなわち平坦なユトランド半島と幾つもの島々を、そしてそこで営まれる暮らしを、こんなにも的確かつ詩的に表現した文章が他にあっただろうか?むろん原文で読んでいるわけではないので、これは翻訳した飯島周氏の力による部分もあるのかもしれない。ただ、例えばこのパンとバターの比喩の巧みさは、チャペックがチェコ語で書いた文章からそのまま維持されているものだろう。書き手の豊かな想像力と語彙。それに支えられた風景描写と言えるだろう。

 

北欧に行ったことのない私は、チャペックの豊かな文章からその風景 —デンマークの長閑な酪農地帯、可憐なコペンハーゲン市の賑わい、鬱蒼としたスウェーデンの森、複雑に入り組んだ入江に跨るストックホルム市の構造、慎ましやかなノルウェーの小村、文学的気風の漂うオスロ市の空気—を頭の中で描いてみるしかない。そうしてみた時に、どうしても引き摺られてしまうイメージがある。東山魁夷の北欧の風景画である。

数年前、京都国立近代美術館にて東山魁夷の大きな回顧展があった。その中に彼がドイツの古い街並みを描いた作品が数点展示されていた。それを見た時から、私は彼が欧州の街並みを描いた作品を気に入るようになったのだ。三年前には大山崎山荘美術館で「欧州の古き町にて」と銘打った、魁夷の展覧会が開かれた。少し燻んだような色合い、精緻な細分化の描写、レイヤーを重ねたような対象の配置。彼特有の筆致で描かれたヨーロッパの風景はどこか夢想的であり、それなのに懐かくもあった。その相反する要素は私を魅了するに十分であった。

あの時、私は、かつて交際していた恋人と共に大山崎にいた。まだ付き合う前だった。多分、私の人生の中でも幸福な瞬間の上位に位置付けられると思う。今となってはもはや客観的に眺めることしかできないその日を、私はチャペックを起点にして、魁夷を経由して思い出すに至ったのである。

夜も更けてきた。これ以上色々考える前に眠ってしまおう。『北欧の旅』の鮮やかな空色の表紙が、やけに眩しく感じた。

*1:カレル・チャペック『北欧の旅 カレル・チャペック旅行記コレクション』飯島周 訳、筑摩書房、2009年。

極夜抄(二十二)

下鴨神社納涼古本まつり」、と云うのが所謂下鴨の古本市の正式名称である。阪急と京阪とを乗り継いで一時間少々。午前十時、私は出町柳に降り立った。下鴨神社の最寄駅である。

出町柳から下鴨神社までは高野川を跨ぐ橋を渡り、鴨川デルタを背にして北へ向かうだけの単純かつそれほどの距離もない行程なのだが、八月半ばの京都はそれだけでも暑かった。木々生い茂る境内に入ってもその暑さは変わることもない。”納涼”古本まつりに向かう前にすでに頭が茹だりそうである。
昨年足を運んだ際は生憎の雨で、テントの外の棚はビニールシートで覆われて見れなくなっていたり、足元が悪くてゆっくりと本を物色できなかったりと心残りがあった。それ故、今年こそは……と多少意気込みながら最初のテントに向かう。
この古書市は奥に向かって細長く伸びる敷地の各長辺にテントが並び、中央に通路が設けられている。私は向かって左の「辺」をなぞるようにスタートし、会場の最奥部に到達したら反対側の列を引き返す形で物色を行った。
昨年は気づいたら一万円近く持ち金を溶かしてしまったという反省もあり、今年は三千円程度で済ませたいな—などという甘い考えは、並ぶ本を前にするとどこかへ消えてしまう。最初の店舗で文庫本を見ていると岩波文庫の『モンテ・クリスト伯』が一巻から四巻まで並んでいた。棚の別の場所には五巻から最終巻たる七巻までがバラバラに入っている。ふと左を見ると「文庫 五冊五百円」との髪が貼られている。結局、私は七冊の文庫本(と一冊の洋書)を抱えて勘定場に向かった。これ全部揃ってんの?と店主に訊かれつつ会計をする。合計八百円也。多分この辺りで多分ブレーキは外れてしまった。いや、それ自体は格安だったのだ。ただ、その後も同じのりでホイホイ購入してしまえば、本一つ一つの値段は格安であっても、合計金額が膨らんでしまうのは火を見るより明らかな話だ。
そうしているうちに一時間が経過した。入り口から次第に奥に向かって進んでいるわけだが、まだ長辺の終わりが見えてこないことに驚かされる。何せ出店数は二〇を超す。ゆっくり見ていたら何時間も経ってしまうだろう。それにある程度目的を定めて見ていかなければ途中で力尽きてしまいそうだ。真ん中あたりの本部で売られている冷えた缶ビールの誘惑に負けそうになりつつ先に進む。
正午少し前あたりに会場の突き当たりに辿り着く。この日の京都市の最高気温は摂氏三十六度に達し、太陽のいちばん高い時間ともなれば暑さと日差しとで頭がどうにかなってしまいそうだ。正直前半で体力と集中力を持っていかれた部分は否めず、恥ずかしながら後半は棚をひとつひとつ眺めるのも疲れてきてしまった。これは購入した本の分、荷物が増えたことも原因の一つではある。途中、使用済み切手がバラ売りしているのを見つける。コレクター、というほどではないが中東欧の切手やマッチラベルは好きで多少集めているのでこれは見逃せない。喜び勇んで切手を見繕っていると、どこかで「雨だ!」という声が聞こえた。確かにわずかに水滴が肌に落ちるのを感じた気もする。急いで会計を済ませ、取り敢えず近くのテントに入る。言われなければ気付かない程度だった雨は瞬く間に大雨となり、轟音とともにテントを打ち付ける。たまたま入ったテントの中には、ビデオアートやサウンドアート関係の洋書が並んでいた。傘を家に置いてきたことを後悔しつつ、ナムジュン・パイクのモノグラフを眺めながらいつ止むとも知れない雨の音を聞いた。砂利敷の地面の上で行き場を失った雨水はやがて小さな川となり、私が雨宿りをしていたテントにも流れ込んできた。人々は狭い両岸や中洲を求めて足を動かす。まだそこの厚い靴を履いてきたことは幸いだったのかも知れない、とぼんやりと思ったりした。
四十分ほど経過しただろうか。雨は降り始めた時と同じくらい唐突に止み、再び眩しすぎるくらいの太陽が顔を出す。通路には二つの小さな川が出来上がり、それがやがて合流して一メートル程度の幅の“大河“となっていた。ちょうど鴨川デルタの子どもといった様子だ。
結局三時間ほどで会場を一周した。今回も雨に降られてしまったわけだが、そうでなくとも後半に至るにつれて疲労してしまい、ゆっくり本を見ることができなかったのが実際だ。そして気づけば一万円近くも消費しており、昨年の反省を何も生かせていない。もっと効率的な楽しみ方もあるのかも知れないが、そもそも古本市に「効率」という言葉は不似合いな気もするので、このくらいがちょうどいい—そう思うことにしよう。

ps: シャツは汗と雨とでびしょ濡れになったのに加えて、トートの持ち手のインディゴが色移りしてしまった。