五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(十三)

昨晩バイトで電話口の客に理不尽なことを言われて以来気分がいつにも増して良くない。所詮アルバイトなのだから気落ちせずにいきたいものだが、頭ではそう思っていても未だに胃がキリキリする。つくづく自分は難儀な性格をしていると思う。

 

先日、世の中を震撼させた銃殺事件が起きた。その日、私は昼前にゆっくりと起き、なんとなく端末を開いたら飛び込んできたニュースがそれだったので、しばらく状況を掴めずにいた。現代日本でこんなことが起きるんだ—という衝撃と共に、その時ぼんやりと私は思ったのである。それでも私は明日もいつも通り夜更かしをするだろうし、研究の進捗は芳しくないだろうし、銀行口座はすっからかんのままなのだろう。そして阪急宝塚線は十分に一本のペースで急行と各駅停車とをそれぞれ運行しているだろうし、国道171号線は大量の車が東西に行き交うだろうし、伊丹空港にはひっきりなしに国内便が離着陸するのだろう、と。こんな事件が起こっても、身の回りの生活はごく当たり前に進展していくという、ちょっと浮遊したような感覚を抱いたのである。それ故、事件を痛ましく思う一方で、自分自身の感情は今まで通りのパターンを辿る。人命を軽視しているわけでは決してないし、生命の尊厳を汚すつもりも一切ないが、自ら命を絶ってしまいたいな、と思ってしまうのだ。

おそらく、私は他人と比べて物凄く不幸というわけではないだろう。むしろ状況はかなり恵まれている方だとも思う。ただ、月並みな言説ではあるが「苦しいのは君だけじゃない」とか「君より不幸な人間はたくさんいる」とか、そんな言葉はかけられる側からしたら何の意味もなさないのと同様、他人が相対的に見て私より苦しかろうとなんだろうと、別に私の感情になんらの変化も与えないのである。人には人の地獄があると言われるが、付け加えるならば、それぞれの地獄は他者からは見えないものでもあるのだと思う。そんな漠然とした希死念慮を抱きながら深夜にYouTubeを見ていたら、自殺を止める駅員、みたいなシチュエーションの動画が流れてきた。命を無駄にしないでください、あなたが死んだらお父さんやお母さんが悲しみますよ— よくもまあ、こんな言葉を言えるものだ、と思ってしまった。もし相手が家庭の問題を抱えていたらどうするつもりだったのだろう。なんと偽善的ではないか。この動画は実際に自殺を止める映像ではないが、しかしだからこそそう思ったのかもしれない。実際に自殺を止めたならば、咄嗟の発言としてそのような止め方をすることにも理解はできる。ただ、わざわざこのセリフを用意して動画を作ることに形容し難い気持ち悪さを感じてしまったのだ。これは自分が薄汚れた性格をしているせいなのだろうか。私は、特段家庭に問題を抱えていたわけではない。高校生の頃、母親の不倫によって父親が自暴自棄になったため家庭が嫌いになったことはあったし、それ以来結婚とか夫婦とかに対する信用をほぼ失った経験はあるが、別に両親には愛情と経済的援助とを受けて育ったと思っているし、その点感謝もしている。ただし、そもそも生まれてこなければ様々な面倒ごとに巻き込まれずに済んだのに……という思いは感謝を上回る。私はまだ色々な間違いを犯しているとは思うが、一番の間違いは二十世紀末のある冬の日、とある地方都市の産婦人科で起きたと思う。叶うならばその日の十ヶ月前にタイムマシンで行って、父親の男性器に避妊具をつけてやりたいくらいだ。だから、多分、私がとあるタイミングで「残された両親が悲しみますよ」と言われたとしても「知ったこっちゃねえよ」と思うだろう。

 

こんな阪急東通の側溝にぶちまけられた汚物みたいなことしか吐き出せない奴は、そもそも気力も意気地もないので、残念ながら明日以降ものうのうと生きながらえてしまうのだと思う。しんどいね。