五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(十二)

西武新宿駅前のルノアールで朝食を摂っていたら、店内に聴き覚えのあるメロディが流れてきた。フォーレ組曲『ドリー』の一曲目、子守唄。それがなんらかの思い出を引き出すファクターになる、なんてことはない。ただ、知っている曲が流れたので反応しただけである。

 

昨日は新国立劇場ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』を観た。私はオペラには全然詳しくないので歌手の巧拙はあまり分からない。少なくとも僕の耳にはかなり高いレベルであるように思えたし、特にメインキャスト三人は素晴らしい出来だったと思う。

それ以上に興味深かったのは演出である。もともと『ペレアスとメリザンド』には特定の時代などは設定されていないわけだが、今回の演出では20世紀前半か中葉か、そのあたりを思わせる舞台装置を用いていた。ただ、それもそこまでパッと見て特定できるようなものでもないため、元々の物語の幻想的な背景を敷衍しているといえるかもしれない。室内装飾が淡色だったのもその印象に拍車をかける。舞台装置自体は大掛かりなもので、左右上下に分かれた舞台が場面ごとに切り替わり、箱庭かドールハウスをのぞいているような気分になった。

大体の場面は現実的なディティールを持っているのだが、時折現実離れした場面も現れる。例えば一幕の冒頭では寝室に巨木が生え、海辺の洞窟のシーンはドアの並ぶ廊下のような空間に岩が横たわる不思議なものとなっていた。まあ、その奇想は最後の「オチ」でやや強引に回収されるのであるが……

舞台装置のうち最も印象的に使われていたのは、泉のシーンに使われる廃プールであろう。これは単に見た目のインパクトという面が大きいのだが、しかしこの舞台が多用される第4幕の演出は、舞台装置以外の点でも興味深いものであった。羊飼いが連れている羊は、目隠しをされたペレアス、ゴロー、アルケル、ジュヌヴィエーヴになっている。迷える子羊と化した彼らは、盲目状態のまま「盲の泉」=廃プールの周りを彷徨う。これはなかなか示唆的ではないか?

もう一つ、気になったのは性行為のシーンである。ゴローとメリザンドのそれは所謂正常位だったのに対し、ペレアスとメリザンドでは騎乗位となっていたのだ。これは意図的なものだろう。

とまあ、ほぼ初見で『ペレアス』を観てしまった割には楽しめたと思う。オーソドックスな演出がどのようなものかを知らないのは問題なのかもしれないが……

その晩、大学の友人と飲んだ。嘘か誠か、彼女は「大学院生っぽくなったね」と言った。周りの人がどんどん社会に出ていく中で取り残されていた自分も、他者からみれば変化しているのだろうか。おそらくは錯覚の類なのであろうが、もし本当ならば喜んでいいのか悲しむべきなのかいまいちわからない。はっきりしていることは、残念ながら人生はこうして続いていくと言うことだけだ。