五線軌条

生活と芸術とか。

秋学期が始まる

あと数日もしたら秋学期が始まる、らしい。

大学の夏休みというものは期間だけ見たらおよそ2か月とそれなりに長い。特に私の出身県は全国的に見ても夏休みが短いという凡そ何の自慢にもならない特色があったので、大学生になった時には心躍らせたものである。

しかし月並みな感想ながら、過ごしてみると2か月の休暇はすぐに終わるのである。旅行なんてできないご時世、研究と語学学習に勤しむつもりだったのだが、やろうとしていたことの2割もできていない。いま、休みの終わりを前にして、研究室に来たはいいものの何事も手につかないのはそんな現状に少々絶望しているからである。

 

読むべき論集を展き、傍らにノートを置いてボールペンを手にしたところで体と頭は止まってしまう。いったい何をしているのだろう。心身が疲弊している気もするのだが、単に自分に甘いだけな気もする。原因がわからないままただ気分だけが沈んでいくのが感じられる。

こういう時は早く帰って、おいしいものを食べて、早く寝るべきなのだろう。しかし帰るために歩くのも怠いし、おいしいものを用意するだけの気力と財力は持ち合わせていないし、睡眠は「死」の親類である気がしてどうも怖いのである。すべてに反論しなければ気が済まないのか、とでも言われそうだが事実そうなのだからしょうがない。

暫く休学をしてもろもろを整えてから出直したほうがいいのだろう、と思わなくもないが、それすら恐ろしいのである。おそらく、立ち止まることが怖いのだとは思う。私は今まで受験に失敗したりだとか、浪人したりだとか、あるいは留年したりだとかそういう経験のないまま20余年を過ごしてきた。それ故もう猶予の与えられた生活が考えられないのだ。私はなにも浪人や留年を経験した人をとやかく言いたい訳ではない。まして休学を選択した人に対しては、それを尊重したいとも思う。ただ私個人に限った話としてもうこの生き方しか知らないというだけの話なのだ。

 

何の気なしにPC内に入っている音楽を再生した。ラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団シューマン:交響曲第3番「ライン」が流れた。シューマンの3番は全体としてー荘厳な第4楽章を除いてはー明るい気風に満ちた音楽だが、心が淋しい時に聴くと却って胸が締め付けられるような気がするのだ。第1楽章、Lebhaft。生き生きと、という意味だ。生(Leben)がそこにある(haften)。快活な変ホ長調、躍るようなリズム、それなのになぜ涙が出てきてしまうのだろう。そのままぼんやりと聴き続けていたら「ライン」は終わり、交響曲第4番に入ってしまった私が最も好きなシューマンのシンフォニーだ。重いA音の引き延ばし。また涙を流してしまった。今日はどうにも駄目だ。全ての具合がよくない。この交響曲の終楽章もまたLebhaftである。となればこのまま音楽を流していたら、またその滾る生命に苦しまされるのだろうか。今日はもう寝よう。睡眠が「死」の親類であるならば、起きればそれは生き返ることに等しいではないか。それに、もしかしたら私のオメデタイ頭は眠ればこの暗い心情を忘れているかもしれないではないか。

 

明日はもう少し器用に生きるつもりだ。多分。