五線軌条

生活と芸術とか。

極夜抄(七)

朝六時の南方駅は想像の二倍は静かだった。阪急電車の沿線は関西屈指のハイソなエリアなのだが、三つの本線の「つけ根」に近ければ近いほど、ディープな界隈となる。南方の雑多な感じはそれをよく表している。

それ故、もっと目を覆いたくなるような状況—酔っ払いや吐瀉物—を想定していったのだが、意外におとなしかった。むしろ家の最寄駅の方が酷いかもしれない。

なぜ私がこんな時間に南方くんだりまで来ているかと言えば、即ち東へと向かうためである。南方から—正確には地下鉄御堂筋線西中島南方から一駅乗ればそこは新大阪、東西へ向かうための出発点である。本日、埼玉県は所沢に於いてヘルベルト・ブロムシュテットNHK交響楽団が私の愛してやまない作曲家、ヴィルヘルム・ステーンハンマルの《セレナーデ》を演奏する。ブロムシュテット氏は高齢であるし、ステーンハンマルの演奏機会は少ない。時間とお金と昨今の感染状況を色々と考えた結果、「聴かなければ後悔するだろう」と思ったのである。

最近生き急いでいることに定評のある私は今日も当然時間とお金に余裕が無い。時間について言えば、午前10時からオンラインによるチェコ語講座を都内で受け、そのまま所沢に向かう予定である。それゆえ7時発の新幹線で向かわねば間に合わない。それでも人間腹は減る。残り1時間もない中で安価かつ確実に空腹を満たす必要があった。

ありがたいことに南方駅前には松屋があった。松屋牛めしは、ほかの牛丼チェーンのものに比べて圧倒的にジャンキーでチープな味がするが、私はある意味それを愛していた。受験生の頃夜食でよく食べていた思い出の味でもある。そんな安価な思い出のトリガーは現在380円で売られている。高校時代に比べたら100円高くなった。値上げは仕方のないことだが、もう「280円の牛めし」は存在しないのである。あの牛めしは(良い意味で)280円に見合う味だったからこそ、私は好きだったのかもしれない。そんなことを思いながらニッケル白銅貨4枚を券売機に投入した。

松屋の基本は「一人客が手短にメニューを選んで黙々とかき込む」だと思っていたのだが、直前に大学生くらいの男女の集団がおり、食券機の前で長いこと迷っていたので想定より時間がかかってしまった。牛めしのために列車に乗り遅れるのはあまり愉快な話ではないな—の少々焦ったものの,牛めしは驚くほどすぐに出てきた。流石である。お陰で余裕を持って店を出ることができた。

名古屋で一度起きたものの、京都から新横浜までは疲れに身を任せて殆ど眠って過ごした。時間潰しのために持ってきた文庫本—下鴨神社古書市で安く買った『マノン・レスコー』—は2ページくらいしか進まなかった。眠ってしまえば2時間半はあっという間である。

新幹線が品川に停車するようになったのは2003年のこと。後から設置されたためか、東海道新幹線品川駅は意外にも小さめに思えた。さて、所沢へ向かう前にここで2時間ほど留まってチェコ語の講座を受講するのだが、そのために初めてオンラインブースなるものを利用されるした。昨今の情勢を受けて増え始めたテレワーク用の「箱」である。今回利用した施設は比較的安価な割には快適に利用できた。前後に予定がある時に利用する場所としてはかなり「あり」だなと思った次第。

正午、講座を終える。所沢までは意外に時間を必要とするもので、実は昼に出発して開演20分前に到着するくらいはかかる。首都圏は思っているより広い、これは東に来るたびに思うことだ。

高田馬場西武線に乗り換える。西武は過去に一度乗っただけであり、高田馬場から乗るのは初めてだったので若干戸惑ったが無事最寄りの航空公園駅に到着した。

航空公園駅前にはYS11が鎮座していた。言わずと知れた戦後初の国産旅客機である。意外に実物は小ぶりでかえって驚いた。駅から続く通りの左手には防衛医大が、右手には公的機関が並ぶ。高層とも低層ともいえぬ建物が広い範囲に並ぶ様子はなんだか新鮮だった。特に防衛医大の手前に並ぶ集合住宅は1階に商店、2階以上に住居が入っており、そうした建物がずらりと通りに面して並んでいる様は戦間期ドイツのジートルンクや共産国の集合住宅のような印象さえ与える。ただし、丁寧に整えられた街路樹のおかげで無機的には感じられない。そんな通り沿いに今回の会場、所沢ミューズはあった。

小さいながらも最低限の要素は揃えた小綺麗なホールだ。ただ、キャパシティに対してアプローチや導線が手狭な感じがした。まあ、大体のコンサートホールなり劇場なりの類はそれなりに導線に問題がある。大阪のザ・シンフォニーホールや神戸の国際会館、名古屋の愛知県立芸術文化センターもその辺は似たり寄ったりだとは思う。

ホール内はなかなか洒落た雰囲気だった。客席はほぼ満席である。

さて、本日の曲目は前半にステーンハンマルの《セレナーデ》、後半にベートーヴェンの《交響曲第5番「運命」》という、どちらが有名か訊くまでもないプログラムとなっている。しかし、私は「運命」の生演奏を一度も聴いたことがないばかりかCDも一枚しか持っていないというクラシックファンの端くれとしてはなかなかに不勉強な人間である。対して《セレナーデ》に関しては実演を聴いたことはなくとも(おそらく)8種の録音が家にあり、そこそこ聴く程度には好きな曲である。それゆえどちらかと言えばステーンハンマルを楽しみに所沢までやってきたのは言うまでもない。

ブロムシュテットのステーンハンマルは、録音で聴くと無駄がなくすっきりとしているが面白みに欠く、と言うのがそれまでの感想だった。しかし、実演だと印象は変わるものだ。丁寧な仕上げと透明感のある音は「つまらない」なんでとんでもない、この曲に正面から向き合った好演を作り上げた。奇を衒わないとはいっても、それは退屈と同義ではない。第1楽章の爽快感、あるいは第3楽章の切れ味はどうだろう!もちろん物足りない点も若干ある。アンサンブルは平均以上だが時折バランスが気になる箇所もあったし、フィナーレの金管はもっと主張しても損はないだろう。ただこれは個人の好みの問題が大きく、この曲のライブとしてこれ以上望むべきものもない。

後半、「運命」もまた堅実な演奏で好印象だった。まともに感想を言えるほど聴いたことがないので正鵠を射たことを言える自信はないが、こちらは精度の高いアンサンブルと厚みのあるサウンドで流石の貫禄といったところか。第2楽章は「この曲こんないい曲だったんだ」と思わず落涙しかけた。

やるべきことをきちんとやれば、真っ向勝負でも音楽はきちんと聴かせられるのだ、ということを実感した演奏会だった。所沢まで足を運んだ甲斐があったというものだ。今後、いつまたこのような演奏を聴けるかはわからない。取り敢えず、この日のステーンハンマルとベートーヴェンは暫くは私の中で鳴り響いていることだろう。